飛鳥の歴史

推古天皇が豊浦宮(とゆらのみや)で即位(592年)し、持統天皇が藤原宮へ遷都(694年)するまでの約100年、明日香の地域に各天皇が宮殿を置きました。
文献に拠れば

  • 推古天皇→豊浦宮(とゆらのみや)、小墾田宮(おはりだのみや)
  • 舒明天皇→飛鳥岡本宮
  • 皇極天皇→飛鳥板蓋宮、飛鳥河辺行宮
  • 斉明天皇→後飛鳥岡本宮、両槻宮
  • 天武天皇→飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)

といった都がありましたが、宮殿の所在地は、現在に至るまでそれほど明確に判っているわけではありません。

一般的には、南は岡、北は飛鳥までの飛鳥川右岸の地域を飛鳥京跡と総称しています。
この地域は元々飛鳥板蓋宮と伝承されていました。
この飛鳥板蓋宮というのは645年の有名な大化の改新で、中大兄皇子や中臣鎌足らが蘇我入鹿を討ち果たした場所です。

飛鳥京絵地図

飛鳥京絵地図

飛鳥を守った歴史

深い歴史と豊かな自然が息づく飛鳥は「日本人の心のふるさと」と呼ばれています。
その裏では、そうしたものを都市開発の波から守るために様々な努力がなされています。

明日香法制定までの略年表

1966年7月 明日香村が古都保存法(※A)によって「古都」に指定
1967年12月 歴史的風土保存区域、歴史的風土特別保存地区の指定
1970年12月 「飛鳥地方における歴史的風土及び文化財の保存等に関する方策について」を閣議決定
1971年5月 「飛鳥国営公園の整備方針について」を建設大臣決定
1980年5月 「明日香村における歴史的風土の保存及び生活環境の整備等に関する特別措置法」(明日香法)の施行
1980年5月 明日香法に基づく施策展開

古都保存法(※A)

1966(昭和41)年に制定されたのが「古都保存法(古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法)」です。この法律は、古都の歴史的風土を保存し、次の世代へと繋げていく事を目的とした法律です。 この法律で古都として指定されているのは明日香村の他には京都市、奈良市、鎌倉市、逗子市、大津市、天理市、橿原市、桜井市、斑鳩町などがあります。

同年7月に明日香村が「古都」に指定されるとともに、翌年12月には、明日香村の一定区域が明日香地区として歴史的風土保存区域(約391ha)に、また保存区域のうち石舞台や飛鳥宮跡地区が歴史的風土特別保存地区(約60ha)に指定されました。

この古都保存法の第一条では「この法律は、わが国固有の文化的資産として国民がひとしくその恵沢を享受し、後代の国民に継承されるべき古都における歴史的風土を保存するために国等において講ずべき特別の措置を定め、もつて国土愛の高揚に資するとともに、ひろく文化の向上発展に寄与することを目的とする 」とされています。

この法律に基づいて古都に指定されると、建物等の新築・増改築、木の伐採、土や石の採取をするときには、知事への届け出と、工事に対する許可をもらう必要があります。

明日香法

明日香の素晴らしい景観や自然を守るために「古都保存法」の特例法として1980(昭和55)年に「明日香法」が制定されています。
この明日香法は、正式には「明日香村における歴史的風土の保存及び生活環境の整備等に関する特別措置法」といい、「明日香村特別措置法」とも呼ばれています。

明日香法制定への背景

1966年の古都保存法制定と同時に明日香村も古都に指定されましたが、交通の発達などで、明日香村も通勤圏となり、それに伴い都市開発の波が押し寄せようとしていました。
同時に明日香村の主要産業であった農林業は後継者不足などで苦況に立たされていました。

保護地域には指定されましたが、その土地を守ることと住民が豊かな生活を求めることという背反する2つのことを両立させなければならなかったのです。
明日香村の住民は、この危機を乗り越えるために、全国に向けて声を上げていきました。

1970(昭和45)年、明日香の素晴らしさに魅せられ、この地に移り住んでいた東洋医学研究家の御井敬三(みい・けいぞう)氏は、「飛鳥時代は中国文化を日本流に消化、吸収した時代、飛鳥人のバイタリティーとエネルギーを明治維新後100年経った時代に考え直してみるべきではないだろうか、『飛鳥古京法』という特別な法律を作り、村も村民の暮らしも国で保護しては如何ですか?何よりも村民が誇りを持ってこの村に住めるようにしなければなりません」 というメッセージを自らテープに吹き込み、松下幸之助氏(松下電器産業会長・当時)を経て、時の総理大臣佐藤栄作氏に手渡しました。

この頃、村内では「飛鳥古京を守る会」の設立総会が開かれ、産業の近代化や観光・保存構想についての話し合いがなされました。
同時期に村史跡研究会の青年グループが主催した「明日香の将来を考える村民会議」では、保存の必要性には異存がなかったのですが、生活上の関心が高く、将来の見通しがはっきりしなければ保存も意味なし、といった発言も多く聞かれました。

こうした「保存か、開発か」といった議論が高まる中、マスコミもこの問題に取り組みました。
こうした流れの中で、中央政界もこの問題に取り組みを始めました。
しかし何よりも政府を動かしたのは、御井敬三氏の“声の直訴状“でした。

同年5月には当時の建設相である橋本登美三郎氏を会長とする「飛鳥古京を守る議員連盟」も結成されました。6月には当時の佐藤首相一行が明日香村を視察。12月に、明日香村における歴史的風土の保存と地域住民の生活と調和を図るために、次のことを骨子とする方策が閣議決定されました。

  • 保存区域及び特別保存地区の拡大
  • 環境の整備(公園、道路、資料館、宿泊研修施設等)
  • その他(歴史的風土特別保存地区の土地の買い上げ、保存財団の設立)
          

そして、大阪で万国博覧会が開催されたこの1971(昭和46)年には飛鳥保存財団が設立されました。

国営飛鳥歴史公園の整備

1970(昭和45)年の閣議決定を受け、翌年に「飛鳥国営公園の整備方針について」の建設大臣決定が行われ、祝戸地区、石舞台地区、甘樫丘地区の整備に着手しました。1974年(昭和49)年に祝戸地区が最初に開園し、その後、1976年(昭和51)年に石舞台地区、1980年(昭和55)に甘樫丘地区が開園を迎えました。
また、1972(昭和47)年の高松塚古墳壁画の発見を受け、1976(昭和51)年に「飛鳥地方における歴史的風土及び文化財の保存等に関する方策の一環としての都市公園の整備について」の閣議決定がなされ、高松塚周辺地区が新たな地区と位置づけられることとなりました。その後、同地区の整備が行われ、1985(昭和60)年に4番目の地区として開園を迎えました。
さらに、1983(昭和58)年のキトラ古墳壁画の発見を受け、2001(平成13)年の閣議決定によりキトラ古墳周辺地区が新たな地区として位置づけられ、2016年(平成28)9月24日に5番目の地区として新たに開園しました。

明日香法の制定

こうしてさまざまな施策が始まりましたが、史跡や観光客のための施設の整備などは予定通り実施されたのに対し、住民生活の向上に関する施策については遅れがちになり、住民からは不満の声があがりました。観光客の中からは「農作業は昔ながらの牛や馬で行うのが良い」などという意見が聞かれ、生活の向上を望む村民との溝が浮き彫りとなりました。

1978(昭和53)年に、歴史的風土の保存と住んでいる人の生活の安定とを調和させていくために、奈良県知事及び明日香村村長から内閣総理大臣宛に、以下のことを骨子とする特別立法制定に関する要望書が提出されました。

  • 保全対策(明日香村全域を対象とした村独自の規制制度の創設)
  • 住民対策(各種助成措置等)
  • 村財政対策

そして1979(昭和54)年、内閣総理大臣から歴史的風土審議会に「明日香村における歴史的風土の保存と地域住民の生活との調和を図るための方策について」が諮問され、同年7月には審議会から「明日香村の特性に鑑み、特別の立法措置により国家的見地から歴史的風土の保存のための方策及び住民生活安定のための措置を講ずべき」という答申が行われました。
これを受けて1980年に「明日香村における歴史的風土の保存及び生活環境の整備等に関する特別措置法」明日香法が施行されました。

明日香法は、古都保存法の心髄である“古き良きものを守る”ことをベースとしながらも、そのためには住民の生活のさらなる向上が不可欠という考え方を基本にしています。 明日香法では現状の変更は厳しく規制しながらも、住民の生活向上のための道路や下水道、公園、教育施設、農業用道路などの整備計画が作られています。

住民の生活の向上と、古き良きものを守ることの調和がはかられる中で、明日香は「日本人の心のふるさと」であり続けるのです。

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